MENU
about-gamou_02

蒲生忠知公の奥方と息女の墓所<宝篋印塔>

当山の旧墓地には、四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓があります。
空高くそびえる立派なお墓は、300年以上の歴史を物語っています。

about-gamou_04
◆息女:梅嶺院殿奉山日陽大童女 正保2年3月19日(1645年)12歳
◆奥方:松壽院殿青山日縁大姉 元禄13年6月27日(1700年)89歳

蒲生家について

松壽院と梅嶺院

磐城平城主・内藤左馬助政長の七女。名前は不明。
13歳で23歳の忠知に嫁ぐ。嫡男鶴松は寛永10年3歳で早世。
忠知死去の際は20歳懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。
この娘も12歳で死去し、梅嶺院と号す。
松壽院は姑‘振姫’の陽壽院の壽を用いて号したと伝えられる。

鶴松君

当山に埋葬との説もあるが、所在不明

法号 岸雪院殿梅香理白大童子
寛永10年12月6日(1633年)3歳

蒲生忠知公

父は蒲生氏郷(会津藩主)の長男、蒲生秀行。母は徳川家康の三女、振姫。
将軍徳川家光公の上洛の供として京都に先行し、その際急病死したと伝えられる。
1627年に没した兄の忠郷には嗣子がなく、忠知の嫡男鶴松君も早世した為、蒲生家断絶となる。
墓所は松山 興聖寺。

法号 興聖院殿拾遺華岳宗栄大居士
寛永11年8月18日(1634年)30歳

内藤家(松壽院の生家)

内藤政長を継いだ忠興は、生前、江戸深川の霊巖寺にあった内藤家墓所を鎌倉の光明寺に移設。
それ以降の歴代も光明寺に葬られている。

© 2017 日蓮宗 大乗山 薬王寺