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蒲生忠知公の

 奥方と息女の墓所

蒲生忠知公の奥方と息女の墓所

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宝篋印塔

本堂中央に鎮座する日蓮聖人座像は、徳川第11大将軍「家斎」の命により建立された徳川幕府の祈禱寺「鼠山の感應寺(ねずみやまのかんのうじ)」の本堂中央に奉られていた尊像である。その像内には、将軍の遺骨がおさめられていた。(鼠山は、現在の豊島区目白付近)

息女:梅嶺院殿奉山日陽大童女 正保2年3月19日(1645年)12歳

奥方:松壽院殿青山日縁大姉 元禄13年6月27日(1700年)89歳

蒲生家について

松壽院と梅嶺院
磐城平城主・内藤左馬助政長の七女。名前は不明。
13歳で23歳の忠知に嫁ぐ。嫡男鶴松は寛永10年3歳で早世。
忠知死去の際は20歳懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。
この娘も12歳で死去し、梅嶺院と号す。
松壽院は姑‘振姫’の陽壽院の壽を用いて号したと伝えられる。
鶴松君

当山に埋葬との説もあるが、所在不明

法号 岸雪院殿梅香理白大童子
寛永10年12月6日(1633年)3歳

蒲生忠知公
父は蒲生氏郷(会津藩主)の長男、蒲生秀行。母は徳川家康の三女、振姫。
将軍徳川家光公の上洛の供として京都に先行し、その際急病死したと伝えられる。
1627年に没した兄の忠郷には嗣子がなく、忠知の嫡男鶴松君も早世した為、蒲生家断絶となる。
墓所は松山 興聖寺。
法号 興聖院殿拾遺華岳宗栄大居士
寛永11年8月18日(1634年)30歳
内藤家(松壽院の生家)
内藤政長を継いだ忠興は、生前、江戸深川の霊巖寺にあった内藤家墓所を鎌倉の光明寺に移設。 それ以降の歴代も光明寺に葬られている。