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薬王寺の歴史

宗派 日蓮宗
本尊 久遠実成釈迦牟尼佛
経典 妙法蓮華経(法華経)
宗祖 本化上行日蓮大菩薩
総本山 山梨県 身延山 久遠寺
開山 肥後阿闍梨日像聖人(日蓮宗大荒行の祖・京都布教の祖)
中山開山 大乗院日達聖人(寛文元年2月13日寂-1661年)

鎌倉時代からの歩み

弘安5年10月(1282年)

日蓮聖人は、病床にあり、その枕元に経一磨(きょういちまろ)という十三歳の少年を呼んだ。

後の日像聖人である。日蓮聖人は日像上人の菩薩としての力を見抜かれ、「法華経の行者に降りかかる多くの法難にも負けない精神力体力を持って、帝都(京都)の布教をせよ」と懇ろに厳命された。

その命を受け日像聖人は迫害を覚悟し、それに耐えうる為と鎌倉の由比ケ浜において百日間の大荒行を敢行された。荒行を終えられた日像聖人が、療養場所を求めたどり着かれた場所がこの地である。

永仁元年(1293年)

この地には、元真言宗に属していた梅嶺山夜光寺があったが、日像聖人が時の住僧を論難し改宗して法華経受持の寺院となった。

日達聖人は有力な外護者の援助を得て、衰微していた当山を忽ちにして七堂伽藍完備の立派な寺院となし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称した。

寛永年間(1624年~1644年)

非業の最期を遂げた駿河大納言徳川忠長公の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に立派な諸堂を造営するも享保5年(1720年)悉く焼失している。

徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった。

慶應3年(1867年)

大政奉還、明治初期尊王攘夷論の台頭が廃仏毀釈の流れを作り、寺院の惨状広がる中で当山の看坊(公卿あがりの僧)が什宝等を売り払い、遂には無住職時代を現出した。

大正3年(1914年)

第五十世海榮日振上人が復興に着手し、東身延本覚寺奉職の傍ら苦心経営するも、昭和13年没。

昭和12年に入寺した第五十一世 大埜茲稔日照上人は池上本門寺に奉職の傍らその遺志を継承し、二代七十余年のたゆまぬ尽力により現在の山容を整えるに至ったのである。

大戦中の東京大空襲の折、当時国宝であった日本最古の日蓮座像や日蓮聖人の真筆書物類を大火の本門寺大堂から救出した話は有名である。鎌倉市由比ガ浜海岸の中心部、滑川交差点にある交通安全の巨大石碑は、日照の筆による。

平成14年(2002年)

昭和62年に入寺した第五十二世 大埜稔申日康上人は、日蓮宗開宗750年記念事業として本堂の増改築を敢行。

平成21年(2009年)

法燈を第五十三世 大埜慈誠日誠上人に継承し現在に至る。

(文 歴史散策グループ 「湘南散歩」様提供)